*--お酒と歴史--*
ウイスキーでも飲みながら、歴史の話をしようかな、と思っています。
飲まなきゃできない新説、珍説など、史実かどうかは気にせずに・・・
大河ドラマが好きな方も、ぜひ、どうぞ。
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【momoさん】20050210 / 20060322 〜
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momo
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聖武天皇の夫人。父は橘諸兄の弟の佐為、749年に正二位。 法隆寺東院伽藍講堂は彼女の旧宅? 天寿国曼荼羅繍帳は742年(天平14年)に作成された可能性が大である。 では、この中の太子は誰か? 長屋王である!!
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Date: 2008/01/09/06:26:14
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momo
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藤原氏物語 世の中の帝、神代七代をばさるものにて、神武天皇より始め奉りて、三十七代にあたり給ふ孝徳天皇の御代よりこそは、さまざまの大臣定まり給へなれ。ただしこの御時、中臣鎌子の連と申して、内大臣になり始め給ふ。その大臣は常陸国にて生れ給へりければ、三十九代にあたり給へる帝、天智天皇と申す、その帝の御時こそこの鎌足のおとどの御姓、藤原とあらたまり給ひたる。されば世の中の藤氏の始めには内大臣鎌足のおとどをし奉る。その末々より多くの帝・后・大臣・公卿さまざまになり出で給へり。 ただし、この鎌足のおとどを、この天智天皇いとかしこくときめかし思して、わが女御一人をこの大臣に譲らしめ給ひつ。その女御ただにもあらず、孕み給ひにければ、帝の思し召し宣ひけるやう、この女御の孕める子、男ならば臣が子とせむ、女ならば朕が子とせむと思して、かの大臣に仰せられけるやう、「男ならば大臣の子とせよ。女ならば朕が子にせむ」と契らしめ給へりけるに、この御子、男にて生れ給へりければ、内大臣の御子とし給ふ。この大臣は、もとより男一人・女一人をぞ、持ち奉り給へりける。この御腹に、さしつづき女二人・男二人生れ給ひぬ。その姫君、天智天皇の皇子、大友皇子と申ししが、太政大臣の位にて、次にはやがて同じ年のうちに帝となり給ひて、天武天皇と申しける帝の女御にて、二所ながらさしつづき御座しけり。 大臣のもとの太郎君をば、中臣意美麿とて、宰相までなり給へり。天智天皇の御子の孕まれ給へりし、右大臣までなり給ひて、藤原不比等のおとどとて御座しけり。失せ給ひて後、贈太政大臣になり給へり。
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Date: 2007/11/10/11:38:05
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momo
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以前から原文を見てみたいと思っていた、藤原不比等が天智天皇の子供であるという、大鏡のなかの藤原氏物語のその部分です。
もう、事実を書いても問題ない時代になっていたのか、何か思惑があって偽りを記したのか、意見は分かれるところでしょう。
私は、不比等は天智天皇の子供だと思います。
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Date: 2007/11/10/18:45:40
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VEM
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momoさん 不比等は天智天皇の子供ですかね? そうだとしたら、天武天皇時代に抹殺されていてもおかしくない、、、 壬申の乱での人物往来を調べてみたいです。 この時代の男女・家柄は複雑ですから
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Date: 2007/11/19/19:41:16
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momo
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一旦は多くが藤原氏を名乗った中臣氏にあって、文武天皇の時に不比等だけが藤原氏を名乗ることとなります。 壬申の乱のとき、不比等は13歳。年齢が彼を救ったのだろうと思います。 とはいえ、危険を避けるためでしょう、田辺史と名を変えていたようですから、相当に恵まれないというか、慎ましやかな生活をしていたでしょう。 宮仕えするにしても、下の方からはいったものと思いますが、これが、なぜか持統天皇から取り立てられます。実力もあったでしょうが、きっかけは同じ天智天皇の子供というのがあったのではないかと想像します。 奥さんの橘美千代との間の光明子は、不比等の死後に藤原四兄弟によって光明皇后となりましたが、本当の本当に人臣の娘だったらどうだったろうかと思います。 まあ、そういう想いです。
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Date: 2007/11/21/12:48:56
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momo
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Date: 2007/10/14/21:53:45
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momo
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Date: 2007/10/16/12:24:01
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momo
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入鹿と皇極天皇のことは、いくつかの本でみますが、もし、二人に子供ができていたとしたら、どういうふうだったでしょうか。 その場合は、周囲はああいう方向へ団結して進んだように思います。 黒岩重吾さんの落日の王子はそこにも焦点をあてています。
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Date: 2007/10/22/00:23:31
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VEM
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Date: 2007/10/03/12:31:28
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momo
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卑弥呼の国が九州から大和へ引っ越した、移動したと考えれば、問題の決着はつきますネ。
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Date: 2007/10/04/07:20:41
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VEM
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神武東遷もそうですが、 何時、何故、誰の時に移動したのか興味深いですね。 倭国大乱も関係あるのか? そして北九州も1ケ所だけでなく、幾つかの場所が卑弥呼の国では?、、と 処で、卑弥呼の国に関して、何冊の書籍が発行されているのか?すごく多いと思います。
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Date: 2007/10/04/12:37:52
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momo
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邪馬台国は史実が明らかになっていないので、それぞれの研究家が自説を展開することができます。 言い換えれば、勝手なことを言えるわけで、一番楽しいテーマではなかろうか、と思います。 九州から大和への移動は、朝鮮半島から何らかの圧迫があったと考えれば自然なことだったのではないかと思います。
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Date: 2007/10/06/07:07:36
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momo
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6世紀に高句麗(こうくり)の僧侶が日本に紹介し、推古天皇の時代から、紅色の染料をとるための植物として利用した。 6世紀の藤ノ木古墳からのベニバナの花粉が検出されている。 花から得られる紅は女性の口紅にされ、平安王朝人の紅や桜色の衣装を染め、また、古代エジプトのミイラの布の防腐にも使われた。 光源氏は葵上(あおいのうえ)を弔う喪服に使用した。
歴史を感じます。 シルクロードが盛んだったころのことでしょうね。
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Date: 2007/10/17/12:26:23
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momo
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乙巳の変で入鹿はこの世を去りますが、クーデターを起こさなければならなかったのは、蘇我氏の権力が中大兄皇子側を圧倒していたからでしょう。 大王家と同じ位置にすでに立っていたのではないでしょうか。 632年、唐から高表仁が僧旻、犬上御田鍬らと共に倭国へ来ました。 彼は舒明天皇に会いに来たのですが、蝦夷が会わせなかった。 このときの模様を旧唐書倭国伝が伝えています。 表仁無綏遠之才、与王子争礼、不宣朝命而還 山背大兄王や古人大兄皇子などが舒明天皇に高表仁を会わせないはずはないので、この王子は蘇我入鹿ということになります。 よって、祭祀以外の権力は、実質的に取って代わられていたはずです。 で、本当の本当に大王家に蘇我氏が取って代わる可能性もあったのでしょう。 でも、このことがクーデターの理由とは思えないのですよネ。 もっと、別の利害関係があるように感じます。 唐、朝鮮半島情勢と関係がある、それは中大兄皇子が何者かということとも関係があるように思います。
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Date: 2007/10/07/22:25:38
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VEM
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岩波文庫「旧唐書倭国伝」1990年版を読み返した処 momoさん 日本書記の巻23、欽明天皇2年秋に唐に 犬上御田鍬と僧恵日が赴いたと書いてあります。 また同じく巻23の欽明天皇4年(632)の秋高表仁を遣わして犬上御田鍬を送る。 その時、学問僧、霊雲・僧旻及び勝鳥養、新羅の送使等従たり、、、、 東アジアはこの時代、国際交流が盛んだったんですね! 山背大兄王が王子説です。岩波文庫
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Date: 2007/10/15/12:46:58
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momo
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隋が滅び、唐が興り、高句麗打倒を狙い、百済は新羅打倒を目論み、新羅は唐と結ぶ。あの高句麗が百済との同盟では足りず、倭国に朝貢する、広開土王の時代には考えられなかった情勢です。 仏教で国を治めるというようなノンビリした時代ではなくなっています。 そういうときに、お父さんの教えを忠実に、山背大兄王は守っていたのではないでしょうか。 そして情勢に取り残され、周囲からも忘れられていく。そのくせプライドだけは高く、蘇我氏の邪魔になってきた、それが滅ぼされた背景ではないかと想像しています。
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Date: 2007/10/15/23:58:47
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